びわ湖から第1疏水への玄関口。第1築地と第2築地があります。水質・水量の安定化を目的として、第1トンネル掘削で発生した土砂なども活用しながら築造されました。また舟運を行う上での中継地点としても活用されました。第1疏水の起工に先立ち、明治14(1881)年8月に量水標が設置され、びわ湖の水位観測を開始しました。また、旧制第三高校(現京都大学)水上部(現ボート部)発祥の地であり、「琵琶湖周航の歌」の歌碑が建立されています。
第1疏水取水口は、びわ湖から第1疏水へ水を取り入れるための取水口です。びわ湖疏水の起点ともいうべき箇所であり、疏水沿線から見ることができます。
第2疏水取水口は、水及び電力需要の増加に伴い、全線地下トンネルを敷設した第2疏水の取水口です。久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)(皇族)の揮ごうによる「萬物資始(ばんぶつとりてはじむ)」の扁額があります。「萬物資始」とは、「すべてのことがこれによって始まる」という意味で、出典は、易経(えききょう)「乾為天(けんいてん)」です。
京阪電車・石山坂本線が第1疏水を横断するために架橋された線路橋です。びわ湖疏水船の航路の真上を車両が通るため、運が良ければ、普段なかなか見ることができない真下からのアングルで車両を見ることができるかもしれません。また、この線路橋の西側にあり、水路に対して斜めに架かっている大津絵橋も、実は、かつて存在した江若(こうじゃく)鉄道の線路橋の名残です。
2つの水門を交互に開閉することで、船がエレベーターのようにびわ湖と疏水路の水位差を克服し、双方を行き来することができるようにするための施設。建設当初、門扉は木製、開閉は人力で、4人がかりで動かしていました。現在、門扉は鋼鉄製となっています。
令和5(2023)年に電動化改修工事が完了し、人力による開閉の必要はなくなりましたが、緊急時の操作などのため、手動操作用ハンドルは残されています。
大津閘門は、北上川に建設された石井閘門(宮城県)に次ぐ、日本最初期のれんが造りの本格的な西洋式閘門であり、大変貴重な近代化遺産です。
大津港便では船の上から閘門の開閉による水位変化を体験いただけるようになりました。閘門の隙間から水が流れ出る瞬間は圧巻です。
各トンネルの入口には「扁額(へんがく)」と呼ばれる石の額が掲げられています。いずれも明治を代表する政治家らが揮毫した歴史的に大変貴重なもので、一つひとつ意味が異なります。
「気象萬千」
きしょうばんせん
【意味】様々に変化する風光はすばらしい
【揮毫者】伊藤博文
第三代京都府知事に就任した北垣国道は、明治維新後の東京遷都により衰退した京都の産業を復興するため、様々な近代化策に取り組み大きな功績を残しました。
そのもっとも代表的なものが琵琶湖疏水の計画と建設です。
「寶祚無窮」
ほうそむきゅう
【意味】皇位は永遠である
【揮毫者】北垣国道
※トンネル内につき外からは見ることができません。
当時日本最長、全長2,436mのトンネルを掘るために山の両側から掘り進むほか、山上から垂直に穴を掘り、そこからも両側に掘り進めて工期を早める「竪坑方式」を日本で初めて採用。しかし堅い岩や大量のわき水に悩まされて工事は難航。苦労の末、地上部直径5.5m、深さ47mもの竪坑が完成します。
※周囲は通常立入禁止になっていますが、道から見ることができます。
第1トンネルの西口洞門には、初代外務大臣の山県有朋が揮毫した扁額が掲げられています。
この洞門のデザインは、米国トロイ~グリーンフィールド鉄道のフーザックトンネル(明治7(1874)年)のデザインに酷似しており、田邉朔朗が設計の際に参考にしたと思われます。
「廓其有容」
かくとしてそれいるることあり
【意味】疏水をたたえる大地は、奥深くひろびろとしている
【揮毫者】山県有朋
阪神淡路大震災の経験から、大地震による堤防決壊時に水流を自動停止する緊急遮断ゲートが平成11(1999)年に設置されました。その先の藤尾橋は疏水工事で最初にできた橋。赤レンガと石造りの土台は当時のまま今も現役です。
舟溜(ふなだまり)とは、荷のあげおろしや人の乗り降りなどのためにつくられた舟の停泊スペースのこと。大津側からひとつ目の舟溜で、周辺は桜の名所です。JR湖西線工事で昭和45(1970)年に新設された諸羽トンネル(520m)の入口があります。
安朱橋は、毘沙門堂の参道にかかる橋です。春には桜と共に、地域の方々が丹念に育てた菜の花が咲き誇る花の名所。その先では、疏水の下を安祥寺川が流れています。元々ここを流れていた川と立体交差しているのが特徴です。
鮮やかな朱塗りの橋が疏水上を斜めに渡る様が印象的。青紅葉の映えるこの橋は、日蓮上人ゆかりの本圀寺に向かう橋。本圀寺は元々は「本国寺」と書きましたが、徳川光圀(みつくに)の帰依を得て現寺号になりました。
第二トンネルは航路上のトンネルの中では最も短い、全長124mのトンネル。
第一疏水のトンネル洞門に掲げられている扁額の中で、最も文字数が多いのが、第二トンネル東口に掲げられた、初代内務大臣井上馨揮毫の扁額「仁以山悦智為水歓」。一見すると2行にわたって横書きに書かれているように見えますが、実は縦に4列で書かれているところが特徴的な扁額です。
西口は、洞門の口が他のトンネルのように半円ではなく、少し尖ったような形に仕立てられており、初代海軍大臣西郷従道揮毫の扁額「随山到水源」が掲げられています。
〈東口〉
「仁以山悦智為水歓」
じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ
【意味】仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶ
【揮毫者】井上馨
〈西口〉
「随山到水源」
やまにしたがいて、すいげんにいたる
【意味】山に沿って行くと水源にたどりつく
【揮毫者】西郷従道
一見何の変哲もない橋ですが、実は日本最初の鉄筋コンクリート橋です。明治36(1903)年に田邉朔郎がつくったもの。そばに石碑があり「本邦最初鐵筋混凝圡(コンクリート)橋」と当て字混じりの碑文が刻まれています。
第11号橋からほんの少し下流にある第三トンネルは全長850m。
東口には、初代大蔵大臣松方正義揮毫の扁額「過雨看松色」、西口には、内閣制度発足後の初代内大臣三条実美揮毫の扁額「美哉山河」が掲げられています。
西口のすぐそばには蹴上乗下船場があり、次にご紹介する旧御所水道ポンプ室も、航路上の大きな見どころのひとつとなっています。
〈東口〉
「過雨看松色」
かうしょうしょくをみる
【意味】時雨が過ぎると、いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる
【揮毫者】松方正義
〈西口〉
「美哉山河」
うるわしきかなさんが
【意味】なんと美しい山河であろう
【揮毫者】三条実美
防火用水として御所に水を送る専用の水道が「御所水道」。ポンプ室は、御所で一番高い紫宸殿の屋根より高く放水できるよう、背後の山上の貯水池に水を圧送する施設でした。設計は京都国立博物館等で知られる建築家・片山東熊(とうくま)で、宮内庁が建設。
まだまだある
琵琶湖疏水沿線の魅力
疏水合流トンネル口には、田邉朔郎の扁額が掲げられています。
田邉朔郎は琵琶湖疏水の建設の主任技師として、北垣知事に登用された人物で、当時、工部大学(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりの21歳でした。
「藉水利資人工」
すいりをかりてじんこうをたすく
【意味】自然の水の力を人間の仕事に役立てる
【揮毫者】田邉朔郎