本圀寺
寺伝によれば建長5年(1253年)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が起源と伝え、鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀されことによります。
寺伝によれば建長5年(1253年)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が起源と伝え、鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀されことによります。
大津から長等山を越えて走る疏水の第一トンネルから御陵の第三トンネル東口までの間には、14箇所の橋が架かっていますが、洛東高校入口の橋を「洛東橋」といいます。
山科を北から南へと流れる安祥寺川と疏水が重なる地点では、川の流れを遮らないように、南禅寺の水路閣と同様に水路橋を設けることで、疏水路を立体交差させています。
安朱橋は、平成12年(2000年)6月の改修工事でコンクリート化されましたが、橋自体は「第4号橋」として、疏水開通以来存在する古い橋梁です。
疏水完成から9年後の明治36年(1903年)、当時は柵がなく、疏水に落ちて水死する子供が相次ぎました。地元の子供を想い、疏水のほとりに地蔵を作りました。
諸羽トンネルは、JR湖西線の建設等に伴う疏水路のバイパス化のため新たに造られたトンネルで、昭和45年(1970年)5月に完成しました。
諸羽神社は、山科十八郷の中で第4番目にあたる四宮や安朱、竹鼻の産土神として親しまれ、「四ノ宮」とも称され、貞観4年(862年)、成和天皇の命で建立されました。
第1疏水には、四ノ宮・諸羽・御陵・日ノ岡・蹴上の5箇所に「船溜」が設けられていました。「船溜」とは、積み荷の揚げ降ろしや人の乗降などのためにつくられた舟の停泊スペースのことです。
「四宮」の地名は、徳林庵の北側に、隠棲した仁明天皇の第四皇子、人康(さねやす)親王の山荘があったことから「四ノ宮」「四宮殿」と呼ばれるようになったことに由来します。
「山科」は、平安京や比叡山延暦寺の創建後、安祥寺・毘沙門堂門跡・勧修寺・曼荼羅寺など多くの寺院が作られ、山科川下流の醍醐・笠取山の山上・山麓には醍醐寺が創建されています。
毘沙門堂は大宝3年文武天皇の勅願で、僧行基によって開かれ、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文5年、山科安朱の地に再建されました。
双林院は、寛文5年、毘沙門堂門跡の山内寺院として建立されました。十一面観音と大日如来の化身で、二体が向かい合って抱擁する姿から「男女合体神」「陰陽和合」を表わします。
藤原順子は、東大寺戒壇諸僧から大乗戒を受け、9歳の孫・清和天皇の生母・明子(あきらけいこ)を助け、五条后と呼ばれていました。貞観3年、円仁により菩薩戒を受け出家した後、太皇太后となりました。