平安神宮
平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建されました。当時、平安京遷都当時の大内裏の一部を復元する形で造営され、平安遷都を行った第50代桓武天皇を祭神としました。
平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年に創建されました。当時、平安京遷都当時の大内裏の一部を復元する形で造営され、平安遷都を行った第50代桓武天皇を祭神としました。
京都市美術館別館は、大正6年に完成した疏水べりの公会堂の東館跡地に建っています。昭和5年の火事で東館が全焼し、そのあと再建されました。
京都府立図書館は、明治31年に京都御苑内に開設し、明治42年に現在地に移転して開館しました。設計者の武田五一氏は「関西建築界の父」ともいわれ、近代日本を代表する建築家の一人です。
京都市動物園は、大正天皇のご成婚を記念して、明治36年4月に開園されました。 世界的な自然環境の喪失により貴重な動植物が絶滅してしまう恐れから、「種の保存」への取組を積極的に行っています。
岡崎疏水は大津市三保ヶ崎の琵琶湖取水口から淀川水系の宇治川までを結ぶ約20キロの第1琵琶湖疏水の一部で、琵琶湖疏水記念館前から夷川ダムまでの区間を指します。
琵琶湖疏水記念館は疏水の意義を1人でも多くの方に伝え、先人の偉業を顕彰するとともに、将来に向かって発展する京都の活力の源となることを願って、市民の協力のもと建設された施設です。
無鄰菴は、明治27年(1894年)~29年(1896年)に造営された明治の元勲山縣有朋の別荘で、庭園は七代目小川治兵衛により作庭されました。 昭和26年(1951年)に国の名勝に指定され、洋館の2階には、伊藤博文らと山縣有朋が日露開戦に向けて話し合った「無鄰菴会議」に使われた部屋が残され、当時の様子を今に伝えています...
南禅寺は、臨済宗・黄檗宗に15ある本山のうちの一つで、南禅寺派の大本山です。 敷地内にある方丈庭園は江戸時代初期の代表的な枯山水庭園で、昭和26年に国指定の名勝となりました。
水路閣は、第1疏水を蹴上から北へと分岐させた疏水分線の一部で、南禅寺境内を通る水路橋です。全長93.2m、高さ約9mの風格ある構造物で、歴史的な景観に溶け込んでいます。
蹴上インクラインは、疏水上流の蹴上船溜と下流の南禅寺船溜の間にある約36mの高低差を、疏水を行き交う舟が乗り越えるために設置された傾斜鉄道で、当時は傾斜鉄道としては世界最長でした。
蹴上発電所は明治24年に日本初の事業用水力発電所として建設され、田邉朔郎の大胆な提言と、その提言を受け入れた北垣知事の英断によって建設が進められ、京都発展の一大原動力となりました。
日本初の事業用水力発電所である蹴上発電所へ、琵琶湖の水を現在も送り込んでおり、最大4,500kWの発電が行われています。明治28年に、日本で最初に路面電車を走らせました。
疏水分線の堤は昭和後期に整備され、一部の区間は哲学者西田幾多郎が散策、思索にふけったということで、「哲学の道」と呼ばれて親しまれています。
この碑は、琵琶湖疏水の建設工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為、昭和16年(1941年)11月、琵琶湖疏水事業を所管していた京都市電気局により建立されました。
ねじりまんぽは、蹴上インクラインの下を通り、南禅寺に向かう歩行者用トンネルです。渦を巻くような形で螺旋状にれんがが積まれているのは、上部のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えられるようにするためだと言われています。「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉で、南北の出入口には北垣国道による扁額「雄観奇想」(ゆ...
蹴上駅は、安元3年の秋、牛若丸が奥州へと向かう途中に通りかかった平家の武士一行の馬が、水たまりの水を牛若丸に蹴りかけてしまった事から、この地が「蹴上」と呼ばれるようになったのだとか。
琵琶湖疏水建設工事の主任技師として活躍した田邉朔郎は、東京帝国大学・京都帝国大学の教授を歴任するなど、土木技術者・教育者として、日本の近代化に大きく貢献しました。
扁額の「藉水利資人工」(すいりをかりてじんこうをたすく)とは、「自然の水を利用して、人間の仕事に役立てる」という意味で、田邉朔郎の筆によるもので、この言葉は、明治天皇の勅語からとられたものです。
日向大神宮は、第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯より、神霊を移し創建されました。応仁の乱で社殿等を焼失しましたが、江戸時代初期に再建され、交通祈願の神社として多くの参拝者が訪れます。
明治23年の開削後、琵琶湖疏水における舟運の利用が開始し、旅客・貨物ともに利用され、昭和26年9月に大津から4.5トンの砂が山科まで輸送されたのを最後に、その姿を消すこととなりました。